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12/5の予習編10 ティツィアーノと比例の会議

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いよいよ講座は明後日になりましたが

私はM1敗者復活戦の投票をしてから、↓この図を頑張って作りました。

(もし間違いを見つけたら教えてください)

 

これは、サン・フランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ教会の平面図です。

 

ヤコポ・サンソヴィーノによるこの教会の設計図に用いられている比例が

”正しい”かどうか判断するため、1534年ヴェネツィア共和国首相アンドレア・グリッティは

専門家を招集します。筆頭は、比例問題と言えばこの人、フランチェスコ・ジョルジ。

彼が報告書を作成しました。他にも著名な建築家・画家・人文学者が一人づつ呼ばれました。

何を隠そう、その時に呼ばれた画家というのが、われらがティツィアーノだったのです。

建築家はセルリョという有名人で人文学者は「深奥の学識をもっているいと名高き哲学者」

と当時うたわれたフォルトゥニョ・スピラです、今では全く無名に近いですが。

 

ティツィアーノは、こういう問題のときに呼ばれるような人だったのです。

 

筆まめなルネサンス人のおかげで、この時の報告書を私たちは読むことができます。

その報告書を元に、比例を確認して描き込んだのが以下の図なのです。

 

ジョルジの報告書によると・・・

 

”私は身廊の横を、第一聖数3の平方である9ベース(1ベース1.8m)にしたい。”→図の下の方に9と

”身廊の縦は27となるが、これは、ディアパゾンとディアペンテを形成する三倍比例である。”→教会の縦長の部分27

 

ディアパゾンとは1オクターブ、1:2の比例で、ディアペンテとは完全5度で2:3の関係のこと。

9:27の比例は、9:18:27という数列に見るんです。すると、9:18=1:2で、18:27=2:3になります。

 

こんな感じで、2倍になる、3倍になる、”名高き調和の一つディアペンテ”(2:3)とか”名高き比例ディアテッサロン”(3:4)になる、とか、そういう話が延々続きます。実際には、部屋の高さなど一部は希望通りにならなかったそうですが、他は誤差程度でこのような整数比例が実行されたようです。

 

ウィトコウワーは「ティツィアーノやセルリョが、この覚え書きを是認したことは、芸術家たちのあいだにも、その考えがよく知られていたばかりでなく、それを実際に応用しようとする準備ができていたことを暗示するもの」と述べています。

 

実際、ティツィアーノだけでなく、当時の画家たちの作品にはこれらの比例の使用が見られます。

それを、講座で確認しましょうね、という話なんですね。

さて、どこでしょうね?ものすごく簡単なのは、中央の縦の仕切り。

ちょうど真ん中、1/2、ディアパッソンです。

 

 

参照)本当に凄いと思うのが、1815年刊行の「ヴェネツィア市案内」にフランチェスコ・ジョルジのサンフランチェスコ・デッラ・ヴィーニャ聖堂のための覚書が掲載されて残っていることです。しかも、これがルドルフ・ウィトコウワー「ヒューマニズム建築の源流」(中森義宗訳)に掲載されていて日本語で読めるということです。ありがたいことです。


絵を見る技術~視れども見えず~

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5日に無事に講座を開きました。

大勢の方に参加いただいて本当に感謝です。

一つ言い忘れたのが・・・

  

3枚とも、弧と縦横を主軸にした構成になっているということ。

 

理解ある皆さんは、きっと気づいていたことでしょう・・・すみませんでした。

 

絵を見るという作業はこういう事だったのか、と思った方もいらしたと思います。

”絵ってそうなってたんだ”と。

最初に見たときと、帰るときでは全然違って見えたはず。

 

以前は絵を見るといったら、感覚的に、フィーリングで、感じろ!というのが主流でしたが

最近では図像学的(絵の意味・物語)な解説を求める方が増えたようです。

 

確かに絵は見るものというより、読むものという側面はあります。

だから状況が分かった方が面白いのです。

しかし、そうやって物語に耳を傾けるばかりに

絵を耳で聞くというちぐはぐな事態にもなってしまっているようです。

つまり、どんどん絵を見なくなるんです。

話の内容確認のために絵を見直す、という逆転現象が起きてしまう。

 

では、”絵そのもの”を見るにはどうしたらいいのか?

ちょっとしたポイントを知っているだけで、各段に見え方が違ってきます。

それが今回お伝えした、コントラストとか、構造線とか、バランスとか、配色とか、光源とか

そういったことなのです。

 

専門用語では形態分析(stylistic analysis)と言います。

 

今回ご紹介できたのは、そういうポイントの中のほんのごく一部。

もちろん、図像学のことも社会的背景、技術面の話もしましたが

こういった形態のことを、もっともっと紹介できたら、さらに分かりやすくなるはず。

絵を見るという特殊技能の民主化の始まりです(笑)

そういう機会がまた持てるよう、準備していきますので

今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

最後におまけ。

 

↓サンチェス・コタンの絵にインスパイアされたOri Gershtの作品です。

平穏な日常の記号として静物画のイメージを使い

その一部を銃で撃つことで、平穏が一瞬で打ち砕かれる様を描いているのでしょう。

日常が暴力で打ち砕かれる経験を繰り返すイスラエルの作家ならでは。

マルメロをザクロに替えることで、まるで血が飛び散ったように見えます。

この作品を見ていると

それだけサンチェス・コタンは静物画のアイコン的(代表的)存在だということを思い知らされます。

配置も銃で撃ちやすいし。吊ってあるし、他と重なってないから。

お正月特別企画:没ネタ祭り

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あけましておめでとうございます。

 

昨年は麹町アカデミアの講座26回中、3回も出ていたことに気づきました。

そんなに呼んでくれて有り難いです。

思えば、学頭の秋山氏に「おもろい」という一点で声をかけられたのが10年以上前・・・。

 

参加くださった方、参加を検討された方、ブログだけ楽しむ方、皆さんありがとうございました。

 

講座のタイトルが毎回長くてすみません。ラノベ意識しました。それもすみません。

 

このたびは講座を準備しているときに、面白いかな~と思って用意しておいたけど

本編にほとんど関係ないから使わなかったネタをお目にかけます。

事務局のお姉さんに「関係ないけど面白いから見せてしまっては」と言われていたものです。

 

 

何かと思うかもしれませんが、左の3点は古典派の彫刻作品に今様風の洋服を着せた

レオ・カイヤールという人の作品で、右の二つはご覧の通りPOLOの広告。

http://www.leocaillard.com/

カイヤールの作品を見ていると「なんか、ラルフ・ローレンくさいな」と思い

試しに適当なものを並べて見ると、ほとんど区別がつかないレベルで似ている。

しかもファーンが獣皮を肩にかけているのが、奇しくもプロデューサー巻きと酷似。

 

また、以前からグッチの広告ってなんか古代の彫刻と似ているなと思っておりましたところ

やはりレオ・カイヤールの作品でバルベリーニ・ファウン(下の図の左上)と

ダヴィデに現代風の装いにしたものがあり、これまたそっくり。

中央の下着のものはアルマーニだったと思います。

バルベリーニ・ファウンってグッチっぽいポーズだったんですね。

 

ジョジョっぽいって?

逆です、ジョジョがこういうのを見て生まれたのです(特にボルゲーゼ美術館にあるベルニーニの作品。)

 

やっぱり、ポージングとか意識的かどうかは別として、影響があるんでしょうね。

 

 

さらに、このようなハイブランドの広告を見ていると

いわゆる古典芸術や伝統絵画をよく見ているんだろうな、という作品に出くわします。

本歌取り的に分かりやすいものから、隠れパロディ的なものまで。

左はシャネル、右がディオールです。

ディオールの方は直接的にエドゥアール・マネを取りこんでいます。

シャネルは髪の毛の表現に私はミュシャを連想しました。

 

ハイブランドの広告を作るひとたちは、いわゆる最高峰の商業アーティスト。

ルネサンス時代やバロック時代なら画家や建築家たちにでもなっていた人たちです。

 

そしてルネサンス時代やバロック時代の画家たちも、それ以前の作品を旅して見て回り

吸収し、そこに「ひねり」を加えて新しい作品を作っていったのです。

ルーベンスほどの巨匠でもイタリア旅行で勉強してまわり

ティツィアーノへのオマージュ作品もあるし、ダヴィンチの模写を残している。

マネだってゴヤのパロディみたいなオマージュ作品を沢山描いている。

あのドガさんもピカソも、古典や巨匠の作品を模写しまくって勉強し

自分の作品に生かしています。

 

こうやって広告とカイヤールの作品を並べて比較してみると

作品同士に何か同じものが流れていること

作家たちによって同じ作業が巡り巡って行われていることが確認でき

しみじみと感慨深いものがあります。

 

↓ちなみに、素っ裸の状態の元ネタたち。

 

 

元ネタが分かっていると、現代の表象文化を見る際にも奥行きが生まれます。

単純に元ネタが分かると、単に面白いというのもあるし

どんな「ひねり」を効かせたのか距離が測れるという楽しみもあります。

 

そういうところに、美術史を学ぶ面白さがあるんです。

巨大なデータバンク、アーカイブに常時接続できるというような

そんな恩恵に与れるのが喜びです。

 

今年もそんな面白さを、一人でも多くの人にお伝えできることを願って

精進していきます。

どうぞ宜しくお願いします。

 

秋田麻早子

 

 

 

 

 

 

 

没ネタ祭り その2 なぜ悪女はいつもブルネットなのか?

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昨年の夏頃、友人と過ごしているとき

「そういえば、ハリウッド映画で金髪の女は無害だけど

悪女って必ずブルネットだよね。」という話題に。

そう、確かに。最後に裏切るのはブルネット。

 

「なのに、男の悪役って必ず金髪だよね。なんでだろうね。」

 

悪い女=ブルネット

悪い男=金髪

 

このステレオタイプはいったい何故生まれたのか?

ネタバレになるから、どの映画とは言えないけど

たいてい、男が悪役のときって金髪のゲルマン系ですよね。

一方、裏切るのは聡明そうなブルネットの美女。

 

たぶん、トランプ大統領がヒール扱いになる理由も、金髪であることが後押ししていると思う。

 

「なんでだろうねぇ」と、その場はそれで終わりました。

 

そして先月12月の講座の準備をしていたある日、たまたま、本当にたまたま

このステレオタイプの起源に触れる資料に出くわしたのです。

本編に全く関係ない話なんですが

「美術と錬金術」がマイブームで、時間があるときには確認するようにしていたのです。

そういう思わぬところに答えがあったりするものなんですね。

 

実は非常に明確な根拠(?)というか、ネタ元があったんです。

それは、四元質説というもの。

錬金術も主にこの説に基づいて考えられています。

(硫黄=火、水銀=水の性質で、合わせたらどうにかなるとかいうやつ)

 

今では全く荒唐無稽扱いの四元素や四元質理論ですが

かつてのヨーロッパ人は大真面目で信じていました。

どういうものかというと、世の中は「乾」「湿」「温」「冷」の四つの性質で出来ているという信念。そして、「火・水・空気・土」という四元素は、この四元質の組み合わせで出来ているという発想。

 

そして当然ながらこの世のすべても、この四元質で出来ていると考えた。

男は火で「乾」で「温」。女は水で「湿」で「冷」。

ここまではなんとなく納得できる。

 

ここからです。

体毛は「乾」で「湿」なものであり、色が濃いほどその性質が強くなる。

男性が黒く濃い体毛があるのは性質が一致しているからいいというのですが

女性の場合は「湿」で「冷」であるにも関わらず

黒く濃い毛があるというのは男性的性質を備えているということで

否定的に受け止められたという歴史があったのです。

 

16世紀のスペインの医学書にも

黒い髪の女性は頭は良いが・・・女性としてはアレで、アレである」

と述べてありました。黒い髪は男性的性質であるので

賢さ=男性的、という論拠で(フェミニストの皆さん、怒るところです)

ブルネットは頭が良いという結論です。

 

なるほど、だから男性が黒い髪なのは良いことで、金髪という女性的(と考えられた)な髪色であることは否定的に受け止められた。そして、逆に女性が黒髪であるのは頭はいいが、女性としての性質が劣ると捉えられた、ということだったのですね。

 

そして、女性が活発に体毛を脱毛するのも

こういうところに根拠があったわけです。

かく言う私自身、はからずも四元質論に踊らされていたことに驚きを禁じえません。

 

ひとまず、周囲にならってもう暫く踊っておこうと思います。

 

それはそれとして、金髪女性がちょっと頭が弱いというステレオタイプは

こういうところに根があったというわけですね。

金髪の人にとっては迷惑な話です。

 

恐ろしいのは、四元質の考え方は完全に科学的に否定されているというのに

誰も本気にはしていないのに

それが生み出したステレオタイプだけはしっかりと引き継がれているということ。

 

こういう思い込みというか、図式というか、考え方の枠組みって

案外と残っていたりするものですね。

 

絵の意味を読み解くとき、そういうのをイコノグラフィー(図像解読)と言いますが

こんな風に当時のものの見方を確認して、それが絵画の表現にどう影響しているか

というような事も調べることもあります。

たとえば、理想化された女性像が金髪で無毛で描かれる根拠の一つでもあります。

(ただ理想化された男性もそんなに体毛があるとも限らないので一概に言えません。)

 

図像の意味が完全に分かることは稀で、分からない事が多いのですが

出来る限りのことは調べていくのが美術史の役割でもあります。

それはまるで、1000ピースのジグソーパズルのうち200くらいしかないのに

どういう絵か推測しろ、と言われるような作業でもあります。

 

だから面白いんですが、こういうこぼれ話もたまには良いかと思って

お届けしてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

絵を見る「場」が大事

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どの絵が好きですか?

どの画家が好きですか?

 

と聞かれることがあります。

そして、いつも答えに窮します。

なぜなら、別にどの絵が好きとか、どの画家が好きとかがないからです。

 

絵と空間が生み出す「場」を楽しみたい

 

なんでもいいのか?と言われれば、そうではありません。

私は特定の絵を切り離してじっと見るより

その絵が飾られているとぴったりくる雰囲気の時と場所で

楽しむのが好きなんです。

 

例えば、2年前に親友がパリジャンと婚約し

彼が洗礼を受けた教会で式を挙げることになり

立会人の私はパリに行く事になったときのこと。

せっかくなので、式だけではなく諸々と楽しもうということで

カルティエ・ラタンのクリュニー中世美術館に行きました。

15世紀終わりころの建物です。

その一隅に、あの『貴婦人と一角獣』のタペストリーが6枚全部かかっています。

建物と同じころのものです。

私以外は誰もいなくて、一度だけ小さな男の子とお父さんの親子連れが入って

すぐに男の子が駆け出していき、お父さんも追って出たので私一人。

西洋茜(赤)とタイセイ(青)とウェルド(黄色)で染めた、大変に貴重で高価な作品で

ガン〇ムでも取り上げられたから日本でも人気です。

それを独り占めで眺める事ができました。

 

こういうのが好きなんですが、このタペストリーが好きかと言われたら、そういう訳でもありません。

人込みの中で見たら、同じものでも違って見えるだろうし

建物も時代が同じってだけで、タペストリーと文脈が厳密には合うわけでもないけど

MOMAの壁にあるのとは気分が違う。

親友の幸せな様子を見てほっこりしてるときだから、ユニコーンとか見ても可愛いと思えたりします。

そのときの、私の置かれた状況、作品の状況、時と場と間と、全部で生まれる体験です。

 

それは一言では言い表せないし、全体として掴んだもので

とても何か一つの要素に還元して説明できるものでも、したいとも思わないものです。

 

でも、出来る限り言い表したい。

 

文脈を大事にするアジア人、単体で楽しめる西洋人?

 

日本人・・・アジア人全般が「高コンテクスト社会」に生きていると言われています。

文脈だとか、背景だとか、関係性なんかを重視する社会ですね。

一方、西洋人(というか主にアメリカ人)は低コンテクストで作品も単体で

文脈と切り分けて見る傾向が強い、と言われています。

 

つまり日本人は、そもそも西洋人のように作品を周囲から切り離して単品で楽しむより

それが置かれた文脈や背景を重要視する傾向が強い。

例えば、お茶の文化なんかがそうですよね。

季節から、庭から、軸から何から何まで、関係性の中で価値が”生起”する。

原因と結果の線的なイメージでなく、関係性の中で出現するイメージ。

 

光琳のカキツバタだって、4月、5月にしか公開しない。紅白梅図だって1、2月。

それは、季節感というコンテクストを重要視するから。

 

では、西洋の絵を見るときだけ、西洋人風に切り離してみる事ができるでしょうか?

たとえ西洋の絵を見るにしたって、岡倉天心が言うように

私たちは日本人として西洋の絵を見ている、のではないでしょうか。

 

私も日本人なので、やっぱりどういう場でどういうタイミングで見るかがとても大事に思えます。

それは、単に見るというより、総合的な体験として大事なんです。

というより、いろいろ試して、そうやって見るのが一番楽しいと私は思っているんです。

 

なんとなくですが、西洋人の中でも体験型のアートが好まれるようになってきて

文脈を大事にするのは、何も日本人やアジア人だけではないような気がしています。

西洋人も、全体的で包括的な”体験”を楽しんでいると思います。

そういう味わい方って面白いな、というのが共通理解になりつつあると思えます。

 

むしろ日本人こそ、西洋の文化を理解し吸収する力が他のアジア人に比べても強かったため

過剰に単体で絵や芸術作品を楽しむ努力をやりすぎたのではないか、と感じることもあります。

本当に日本人は勉強熱心で、本格的な人が多いです。

 

大行列してぎゅうぎゅうで、絵の様式と全くあわない建物の中で

天井が低いところでぎりぎりに詰めた大きな絵を見る。

これが悪いわけではありません。

素晴らしいものは、どこで見ても、どうやっても素晴らしいには違いないんです。

しかし、文脈から切り離して単体で理解しようとするそのストイックさには

時々、申し訳ないような気持ち(私のせいじゃないけど)になります。

 

もっと日本人にとって取り組みやすいプレゼンテーションにしてくれ!と文句を言わない。

でも、西洋美術だって、私たち日本人なら、日本人らしく

場や間や関係性を重んじた見方を望んでもいいと思うんです。

それは、決して西洋の美術の価値を損なうことではなくて

より深い理解につながると思うし、西洋人自身が気づかなかった魅力の発見にも

繋がると思っています。

 

「見る」ことだけを切り離すことなんて、もちろん出来ない

 
「絵の見方」を伝えるため、私はこんなに張り切っていますが
根源的な事を言えば、「見る」ことを他の要素から切り離すことなんて出来るとは思いません。
 
出来ないけど、便宜上、基本的な事を学ぶために切り離してお伝えすることになります。
全体的で包括的な体験にもっと自覚的になるため、そしてその精度を高めるために
過程の一つとして「枠をかけて見る」方法をお伝えしています。
今のところ、「構図」・・・「色」「バランス」「比例・比率」「目線誘導」などです。
 
全体的体験を大事にするとき、ある側面に特化することは、何か大きな間違いを犯すというか
何かしら見誤るのではないか、という不安をかきたてます。
アジア人なら特にそう思う可能性も高いと思います。
しかし、そんな心配は必要ないんです。
 
この違いは、形而上学と形而下学の違いです。
私が言っている構図の見方などは、形而下的な話で、実践的で、つまり今なにしたらいいの?
に具体的に答える方法です。
形而上学的な話が知りたい場合は、いくらでも理論が出ています。
フーコーやデリダとかが書いていますが、いくら読んでも
あからさまな贋作と真作の区別さえつくようになりません。
それは、位相や次元が違う話だから当然なのです。
私は、具体的に様式や構造なんかを見る話を中心にしています。
 
語りえない包括的な体験を、有限の時間に生きる私たちがちょっとでも
実感のある手触りを持って見たと知るために
便宜的に「画枠の比率がこうだから、こう」
とか「目線がこんな風に誘導されてる」とか
「バランスが中央を軸としてシーソーのように取ってある」とか
「補色理論が盛んだったから補色を使ってる」などとフィジカルな話をしているのです。
「3/4とか2/3がルネサンスでは重要な比率だった」、とかです。
それは、いずれは全体的な体験の一部であると自覚できるはずだし
全体的な体験を深めるものになるはずです。
「ここがそうだから、そんな風に感じたんだ!」みたいな理解です。

私がローマでサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に行ったときのことです。

外は冬の冷たい雨で、人はまばら。

 

 

たまたまオルガンの演奏中でした。バロックな音楽を聴きながら

ローマで唯一のゴシック教会の青い交差ボールト天井を眺め

ちらっとミケランジェロの彫刻を見たり、ここでガリレオ・ガリレイがあの裁判受けたんだ

とか、フラ・アンジェリコのお墓がここにあるんだ、なんて思っていると

演奏が終わり、まばらにいた人たちで一斉に拍手をしました。

 

こういう体験はは本当に面白いもので、記憶に残ります。

西洋の歴史と、美術史の時間に学んだ事がいちどきに迫ってくる瞬間です。

 

こういう場の空気とか、雰囲気とか、場の記憶とか、そういったものと

そこにある作品が溶け合った体験をすることが何より面白い事だと

私には思えます。

 

これは一瞬で、全体的に、ぱっと捉えるしかないものです。

でも分解は可能です。雨、オルガンの音、湿気た室内、フラ・アンジェリコ・・・

五感全部で内省的になれる状況で、ベルニーニが彫った墓碑がさほど目立たない場所にある贅沢、

ガリレオ・ガリレイが正しかったと私は知っている事、フラ・アンジェリコが今なお非常に高く評価されていること、

イタリア来るのに貯金して良かった、などが絡まっているんです。

 

そういう全体としての体験をより深く楽しむには、

全体的なものを知る本質的な不可能性を受け止めた上で

その一つ一つの要素を、それをつなぐ関係性を具体的につかむことが

体験を豊かにこそすれ、損なう事はないと私は思います。

というかそう信じないと、実際問題、何も出来ないのです。

そうでなければ、私は何を見て美しいと思い、楽しいと思い

素晴らしいと思うかも、自分でちっとも分からないままになってしまうからです。

 

全体を見渡しながら、細部がどういう関連になっているのか

その視点を失わないなら、きっと部分に注目していても

大丈夫です。だから、バランスや目線誘導の工夫なんかも

安心して検討したらいいんです。

 

そう思って、「構図」の見方に続いて

「様式」の見分け方の準備などやっているので、お楽しみに!!

 

 

 

ホームズの「推理」

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私は講座で頻繁に、ホームズの考え方を例に出します。

 

出すたび、内心、なんかモヤっとするな、と思っていました。

何にモヤっとするのかというと、ホームズが言う”推理”という言葉は

原語では"deduction"と書かれていて、意味がしっくりこなかったんです。

 

この単語は一般的に「推理・推測」でもありますが

もう少し突っ込んでいうと”演繹”という意味です。

 

ずっと思っていました。

 

ホームズ、演繹してるか?と。

 

3つの推理の方法

 

もちろん、推理、という意味で使っているんだと思うんですが

なんか、しっくりこない。

 

ホームズは殺害現場と関連個所の観察結果から

もっとも妥当な、その事件を成立させる”仮説を推理”しているんです。

いえ、”仮説を構築”しているんです。

 

思考が、ひとっとびしてます。

 

考えられる仮説は複数(もしくは無限に)ある中で

もっとも妥当なものを選び出している。

そして、仮説が正しいという保証はそれ自体にはないんです。

 

可能性が高い、ってよく言いますよね。

 

演繹・・・してないですよね。

 

 

困ったな。

演繹と帰納を行ったり来たりして『見る』を磨こう!とか書いてるのに

言ってるのに、肝心の例に出してるホームズの推理は演繹してない。

なんなら、帰納でもない。

 

殺人現場を観察して導き出されるのは、人が殺されたってことですもんね・・・。

 

演繹=ディダクション deduction 一般的な前提をもとに、特定の結論を得る

帰納=インダクション induction 一連の事実をもとに、一般規則を引き出す

 

この2つは、物事を推測するときの(科学の)2本柱です。

演繹は、前提が正しければ、その結論も正しい。

一方、帰納は必ずしもその規則が正しいことを保証しない(蓋然性が高いだけ)

という性質を心得ておく必要があります。

 

科学は・・・学問は・・・事実をもとに導き出された仮説(帰納)から予想できること(演繹)を

実験・観察して確かめることです。

 

ですが、ホームズがやっているのが・・・なんと第三の推理方法である

アブダクション abduction。

 

「誘拐」という意味がありますが、この文脈では『仮説的推論』と訳すべきものです。

ヒューリスティックと言われることもあるようです。

知識と経験に基づいて、一足飛びに結論に行く思考法ですよね。

ホームズの方法は知識と事実に基づいているとはいえ

蓋然性は高いとはいえ、飛躍は飛躍なんです。

なんなら、演繹としてとらえるなら、後件肯定で非妥当でさえあります。

 

もちろん得る方法が帰納であれ、アブダクションであれ

その仮説から予測されること(演繹できること)を検証することが可能なら

その仮説が妥当かどうかは判別がつくでしょう。

 

科学にはそんな瞬間がきっと、何度かあったんでしょうね。

ひらめき、と呼ばれるもの。

検証されなければ、単なる思いつき、ですが。

 

 

絵を見るときにどうやって

3つの推論方法を使いこなす?

 

絵を見るときに、どうやって使うのか?と言いますと

誰かの感想を聞いて、その人が絵のどこに注目しているのか推測するとき

私はこのアブダクションを使っています。

経験に基づいたパターン認識みたいなもんです。

 

可能性のうち、もっとも蓋然性が高いものを取り出すだけ。

絵の意味の解釈も、わりとこのアブダクション的なものが多くあります。

それは、厳密には図像解釈には蓋然性しかないという現実があるからでしょう。

 

そして、絵の構図や様式の見方を覚えるときなどは、

大体が専門家によって帰納的に導き出された

亜法則のようなものを共有するイメージです。

だから例外的なものが見つかったら、

アレアレ?って専門家でも驚くことがあるんですね。

そしてそのたびに、亜法則を修正するんです。

 

さらにこの共有した亜法則を、目の前の絵に当てはめて妥当かどうか見てもらう。

この作業は演繹的といえるでしょうね。

この作業を繰り返すと、自分なりに帰納的に規則が見えてくるかもしれません。

そうなってくると、面白くなります。

 

さらに大枠では、様式の変遷の法則を考えるとき、演繹法を使って

もしAであればB、というような仮説を立てては崩れ、また崩れ、さらに別のも崩れ

を繰り返して、様式の研究者たちはその件については一旦休止中です。

(このやり方がそもそもアレなんだと思います。

様式を成り立たせている要素が時代ごとに変わるので

変遷の構造を単純にモデル化できないという大前提に気づいていなかったんですね。)

 

アブダクションだよ、ワトスン!

 

ある日私は、ダニエル・レヴィティンの『武器化する嘘:情報に仕掛けられた罠』という

論理的思考の基礎と、ありがちな誤謬に関する良書を読んでいたら

 

「アブダクションだよワトスン」

 

という輝かしい1文に遭遇!

「ディダクションだよ、ワトスン」のところです。

 

なんてすっきりするんでしょう。

モヤっとした思いは、どこかで大事にとっておくと

腑に落ちるときが来るかもしれません。

どこかに仕舞っておくのも悪くないものです。

 

ポール・セザンヌの「色」

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セザンヌの絵って特徴的ですよね。

 

どういう風に特徴的なんでしょう?

色に注目して見てみましょう。

セザンヌは光をオレンジ、影を青で表しています。

この二色を、色相関上に線を引いて軸にして見てください。

 

 

 

ほとんどのセザンヌの絵が、この1の側の色だけで構成されています。

 

まあびっくり!本当に、言われてみるとそうだわ!

水浴図とかサン・ヴィクトワール山の絵とかもそうですね。

意識してそうしているんです。

もはや1の部分を見てるだけで、セザンヌな気がしてきます。

発見した人すごい。セザンヌを毎日毎日眺めてたんでしょうね。

 

2の側を使った絵もあります。オルセーのりんごとオレンジなんかそうです。

でも、圧倒的に1の側のイメージがありますよね。

 

さらに、セザンヌは伝統派なので(本当に)、絵具トラディショナルなものを使いました。

当時は新しい絵の具もあったのですが、伝統的な黄色や茶色を用いたので

その点でも、同時代のカラフルな絵と比べると、少し色味が渋い印象になっているのも

セザンヌらしさを生んでいると思われます。

 

これからは、青から緑を通ってオレンジに至る色幅で

ちょっとくすんだ色味のコーディネートを見たら

 

「まるでセザンヌですね」

 

と思ってくださいね。

 

画家によって色使いに特徴があって、それが個性を生み出していることがあります。

そういう特徴の集合が見えてくると、目を付けるポイントなんかが分かってきて

どんどん面白くなります。

いろんな機会に、他にもどんどん紹介していきたいです!!

結果だけでなく、そこに至る方法を

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美術の歴史の話は、とても長く深く細かく入り組んで面倒くさいので

そこに至る道を全て端折って、分かった事だけ伝えることが多くなります。

 

でも、多くの人が知りたいのは、どうやってそれが分かったのか?

という事じゃないでしょうか。

もちろん、私だって成果も知りたい。

だけど、どうやって?という部分も同じくらい面白いと思います。

 

ヤン・ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻』を例にとってみます。

 

絵を見るとき、ざっくり言って

 

1)形式・・・色や形など見て分かること

2)内容・・・絵の意味、見て分かること・調べないと分からないこと

3)文脈・・・社会的・政治的背景などなど

 

の3つの視点で確認しながら見ていきます。

 

実は、4つ目に「価値」を論じる必要もあるのですが

価値の話は必然的に優劣を決める話に繋がり、20世紀後半の美術史の世界では

あまり言わなくなりました。つまり、なんでもそれなりに素晴らしい!の世界に。

その結果、価値が論じられた時代のことまで一緒くたに分からなくなってしまう

弊害も起きました。

 

価値について、私は今後きちんと論じていきたいと思っています。

では一旦、3つの視点に戻りましょう。

 

1)の形式は、視覚言語(色・形・線・テクスチャ)とか、様式とか

遠近法とか、バランスとか、そういうものを見ます。

 

私が講座でずっと話しているのは、主にこの段階です。

主に、こんなところを見ます:

 

・とっても細密な描写

・いろんな素材を適切に描き分けている:箒の部分はひっかくようにして描いている、犬の毛、真鍮、ガラス(琥珀?)などなど

・写実的

 

→細密さも、写実性も比較の問題で、同時代のほかの絵に比べてということ

観察したり、比較して分かります。

 

・左のプーチンに似ている人(欧米人も似ていると思っています)は左側に立って、女性が右側に立っている、左右対称の構図

・配置は左右対称ですが、バランスとしては、左上と右下に重みがある点対称的なバランス

・シャンデリアと鏡と犬が真ん中に縦に並んでいる

・二人の手が結び目として中央で二人の人物をつなぐ働きをしている

 

→構図の見方を知っていたら、すぐに分かるようになる点です。

講座ではこういう話をよくしています。

 

・男性が紫(紫なんです)、女性が緑

 

・一点透視図法ではない

→線を引いて確認した人がいます。一点透視法風ですが、消失点がいくつかあります。

・光は左から

→写実的な絵の場合は、陰影がついています。それを元に、絵の中の光源がどこかを探ることができます。

 

・赤外線の調査で、下絵段階から完成まで描き直しがかなりあったことが分かっている

→これが、アシスタントではなくヤン・ファン・アイク自身がほとんど描いたことの証拠とされる

→完璧な構図が、ちょっとづつ試したり微調整しながら得られたものだと分かる

 

様式について。

 

もし様式が分かれば、後期ゴシック(初期ルネサンス)に分類するでしょう。

ちょうど過渡期なので、細密描写・彩度の高い色合い・無表情などゴシック的な要素と

陰影の表現や油絵の高い技術などルネサンスの特徴も示しているため

厳密にはどちらの様式の要素も備えている「北方ルネサンス」と言いいます。

 

これも、様式の基本を覚えて、見慣れたら割と簡単に見分けられるようになります。

 

形式に関しては、基本的な事を知っていたら、見れば見るほどわかる事が多いです。

そして、技術の高低が論じやすいのもこの形式についてです。

 

2)内容については、図像学とかイコノグラフィとかいいます。

 

描かれた絵の意味を探る。

謎解きみたいで楽しいので、美術史に興味を持った学生は

最初、この図像学にハマります。私もハマりました。

 

例えば、女性がおなかが大きいのは、妊娠しているからというより

こんな風に描くのが流行っていたのが分かっています。

 

他にも、シャンデリアに一本だけろうそくがあるのは、何なのか?

鏡に映っている二人の人物は誰なのか?

なんで初夏(窓外のサクランボの木に実がなってる)なのに超厚着なのか?

 

こんな疑問に答えていくのが、図像学。

謎解きみたいで、人気があります。

「女性が目の玉を持ってる、聖ルキアだな」とか

「女性が生首を抱えている、サロメかユディトだな」

というような事が分かると楽しいものですが

残念ながら、そんな分かりやすい絵ばかりではありません。

結局、この絵についても、そういうことはあまりよく分からないんです。

 

図像学の話になると必ず、エルヴィン・パノフスキーが引用されますが

パノフスキーは確かに偉大ですが

ちょっとだけ過剰解釈気味なところがあるので、そこは注意が必要です。

 

いろんな学者が、仮説を構築して根拠を提示していますが

どの説も、他の説より特に説得力があるというほどでもありません。

 

そもそも、タイトルが「ジョヴァンニ・アルノルフィーニと彼の妻の肖像」となってるけど

所蔵しているロンドン・ナショナル・ギャラリーですら

ジョバンニ?アルノルフィーニと彼の妻」とクエスチョンマークをつけて記載しています。

犬だって、貞節を表しているとも、愛欲を表しているとも、単に可愛いから描いている

とも様々に言われています。

わりと、そういう風な感じで、分からない事が多いのがこの図像学という領域です。

 

意味を調べるには、同時代の風俗・宗教・文学・政治・経済もろもろの文献を

調べる必要が出てきます。

ときに、絵とはもうほとんど関係ないことを調べないといけない事も多くあります。

なんとなく、社会学・風俗史・民俗学の研究に近づいていきます。

 

例えば、オレンジが描かれていますが、当時高価なものだった、ということを調べるのは

厳密には絵の調査というより、オレンジの社会的意義を調べるということです。

絵の意味を調べていくと、だんだん「私、今なにやってるんだろう?」という気分になることがあります。

 

そして、多くのは場合は「よく分からない」ままで、すっきりしないでモヤモヤします。

仮説が通説になってしまう事もあって、そのあたりも注意が必要。

たいていは、解読できる部分より、出来ない部分の方が多いのです。

図像解読にハマった学生は、この分からない部分の多さに愕然とするはめになります。

 

3)文脈の中で見る、イコノロジーと言われます

 

この絵が幅広い意味で、どういう位置づけなのか?と考えることです。

ヤン・ファン・アイクの作品全体の中でどういうポジションか。

北方ルネサンス、ネーデルランド絵画においてどういう役割を果たしたか。

油絵の歴史においてどういう存在か。

 

描かれた当時の、社会の何を反映しているのか?

また、当時の社会でどういう位置づけ、意味あいを持った絵だったのか?

 

例えば、錬金術の枠組みでこの絵を見る解釈があります。

錬金術はいまでこそ胡散臭いものですが、当時は信じている人も沢山いたのです。

 

緑のドレスは、水の属性を表していて・・・紫は男性原理を表している・・・

しかも、真ん中の鏡の枠はキリストの受難を描いているのですが

キリストこそが賢者の石そのものである、という捉え方が当時にはあって

復活のプロセスは、まさに錬金術のプロセスと連動しているという解釈があり

この絵はまさしく錬金術の達成を描いているのだ!なんていう意見もあるんです。

美術史学の権威ゴンブリッチは「この巧みな解釈を読むと疑念が湧くかもしれない」と論評。

 

私は面白いと思いました。面白いなって、ただそれだけですが。

そういう風な考えが、表現されていても不思議はありません。

しかし、確かにそうである、と言い切ることも出来ません。

1枚の絵から始まって、いかにどれほど風呂敷が広がってしまったか・・・と言う事を

痛感するのが、このイコノロジー的な領域です。

もはや、絵をネタに、思想史、社会史学的な話になっていきます。

 

 

こうやって考えると、どれほど形式の話は

足場がしっかりしているのかと驚きますね。

ドレスが緑なのは間違いないし、赤外線の調査も間違いない事実なんです。

そういう事実から始めるのが、一番安心します。

 

「アルノルフィーニ夫妻」については

意味がよくわからなくて謎めいているけど、形式の部分の魅力がとても強いので

つまり、よく描けている、ゴシック的、完璧な構図、などの魅力が強いので

意図が謎めいている事が、むしろミステリアスな価値をより高めるという結果になっています。

 

基本となる形式について見れるようになって

その上で、歴史とか、図像の意味とか、そういう話を知ると

どこまでが「はっきり分かっていること」で、どこからが「確かではないこと」なのか

線引きをしながら理解することが出来ます。

混乱せずに、順序だてて勉強できるんですね。

 

だから、この順番で絵の見方をお伝えしていきたいなと思っていて

やっと、構図の見方と色のお話が出来ました。

またやってほしい!というお話もあって、そういう機会が持てたらうれしいです。

 

次は様式の見方をお話できるように準備を進めています。

今まで話した内容を、もっとわかりやすくまとめる必要も感じています。

たのしく、きちんと、面白がりながら、真面目に、絵を見る技術を学んでいきましょう!

 

 


見るほどにじわじわ来る絵

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ジャン=レオン・ジェロームの『仮面舞踏会の後の決闘』という絵です。

 

1857年頃の絵で、発表当時、大人気だったそうです。

私としても、一押しの絵です。

 

最初はチラッと見ただけだと、ふーん、って思うだけかもしれないんですが

よく見てください。決闘でやられた側の人、ピエロの恰好してるんです。

この格好で決闘で死にたくないな・・・遺族もいたたまれないと思う。

 

勝った側の人は、まさかのネイティブ・アメリカンのコスプレ

その勝った人を支えている人が、よく見たらハーレクインの仮装

しかも、後ろ姿がなんだかしょんぼりしてる。

 

右下にぱらぱら何か落ちてると思ったら、ネイティブアメリカン仮装の人の

羽飾りの羽

 

やられた人も、大げさな身振りですが、周囲の人も全員コスプレ。

オランダな恰好や、ヴェネツィア風とか。

横にあるグレーの布の上に、ふざけたアイマスクみたいなの落ちてるし。

 

しかし、あくまでも、シリアスな感じの場面。

笑ってもいいのかどうか、思わず周囲を見回してしまいそう。

ジェロームの他の絵を見ると、そんなお笑い系でもないので

この絵がたまたまそういう感じなのか

なんなのか・・・・

 

ジェロームは、私もとてもお気に入りなんですが

最近、オルセーだったかでジェロームの展覧会に異例の入りがあったそうで何より。

特に、若い世代に急に人気が出てきたみたいです。

 

この絵を所蔵するウォルターズ美術館は気前よく画像をばーん!と

クリエイティブコモンズで公開しています。

著作権フリー。

気に入ったらどんどん拡散してくれ!とのことですが

思わず私も拡散したい気分になりました。

 

 

構図などの分析については、後日また。

ジェロームの構図は非常に特徴的。

二つの焦点を画面上で拮抗させるのが上手なので

その工夫のほどを眺めるのが面白い画家です。

 

もし、自分で分析してみたい!という方には:

 

1.画面で最も目立つ部分はどこですか?どうしてそこが目立つんでしょう?

2.次に目立つ部分はどこですか?最も目立つ部分との関係はどうなってるでしょう?

見るほどにじわじわ来る絵の解説

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ピエロとネイティブ・アメリカンの決闘の絵の解説編です。

 

見るほどにじわじわ来る絵って他にも沢山あって、ちょこちょこ紹介していきたいです。

そして、じわる絵を使って構図などを解説していけたら面白いかなと思っています。

 

これは、ジェロームの『仮面舞踏会の後の決闘』という絵なんですが

ジェロームとは、古典的(見て分かる上手な絵)を描くアカデミー系いわゆる「体制派」の画家で

その当時台頭してきた、モダンな画家たち(反体制派)が

「ああいうのって古い!」とおもっていた画家のひとりです。

 

最近では、モダン疲れした人々の間で一周回って人気が出てきています。

 

 

前回の最後に、この絵の一番目立つところはどこですか?どうして一番目立つと思いますか?

と質問を投げかけておきました。考えた方もいるかもしれません。

考えなかった人は、いまちょっとだけ考えてみてください。

 

目立つ理由:色が鮮やか、コントラストが激しい、でかい

 

 

左の人物群が一番目立ちますよね。

これが、決闘で負けた側のピエロとその友人たちで

一番目立たせたいから、目立つように描かれているんです。

勝った側は右側に、多少おさえ気味の存在感。

右下に激闘の跡である羽が・・・・

(これは講座に出た人は知っている「角の抑圧」です、視線を画面に戻す効果があります)

 

目立たせる方法はいくつかあって

1.デカくする

2.一番目立つ色にする

 

などが主な方法。

他にも、何かしら線がそこに向かうように

遠近法の焦点にしたりする方法もあります。

この絵の場合、まずこの人物群が一番でかい。

そして、色の彩度がここだけ高い。

 

この絵のユニーク?なところは、一番の主役であるピエロが白く抜かれていて

実は背景と同化しているけど

それを、取り囲む人たちの彩度を上げることで

額縁のように際立たせている点にあります。

 

たとえば、右のネイティブアメリカンにつきそっているハーレクインだって

赤と緑の派手な衣装のはずですが、彩度を抑えているのは

主役より目立っては、絵の効果が台無しになるからです。

色相じたいは、赤と緑、でピエロの横のヴェネツィア風な人の衣裳と同じ取り合わせなんですね。

違いは色の鮮やかさの度合い(彩度)。

 

憎いポイントが、ささえているオランダ風の人の上の枝のしなり。

ちょうど図にも示したように、輪郭をなぞるように、二本の枝がアーチ状になっています。

これも、ここが目立つところですよー、という合図みたいなものです。

 

幾何学的に正確な配置と写実的な表現

 

配置については、フランスのアカデミー系の画家の特徴として

長方形の短辺を転倒させた(ラバットメント)位置を基準に使う方法を用いていますね。

青いラインが、長方形の短辺の長さを辺に持つ正方形を内部に書いた線です。

点線は中心線です。

何気なく落ちてる剣の位置も、ちゃんと考えて置いてあるんです。

 

これでざっくりと位置が幾何学的正確さで決まっているのが分かります。

(もっと熱心な皆は、コンパスも取り出してみよう!さらなる幾何学的ポイントが見つかるよ!

思い出すのは、ジェロームの師匠ドラロッシュによる『エリザベス一世の死』です。)

 

古典派の画家の凄いところは、いろんな効果をちゃんと使いつつ

画面全体をきちんと統一感あるものにしながら

なおかつ物語をちゃんと伝えるという技術の高さです。

画面の内部の秩序と自然さ(写実的なデッサン力)とを兼ね備えている

それが古典派というものの実力です。

20世紀はそれを否定しつづける時代でしたが、多様化した21世紀は

モダンアートもいいけど、古典派もいいじゃん!という時代になりそうです。

 

この絵はまだ他にも見るポイントはいくつかありますが

今日はひとまずこの辺りで。

 

他にもじわじわ来る絵をいっぱい紹介したいんです。

一つづつですね。

 

見るほどにじわじわ来る絵2

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バルトロメオ・スプランヘルの『ヘラクレスとオンパレ』という絵です。

 

私にはじわっと来ます。

 

スプランヘルは16世紀後半に活躍した

錬金術好きの神聖ローマ皇帝の宮廷画家でした。

 

女装しているヘラクレス。

これはれっきとした神話に基づいた題材。

ヘラクレスは故あってこの女性オンパレの奴隷になるのですが

彼女の趣味(?)なのか、衣裳を取り換えっこしているのです。

彼女が獅子皮を被ってこん棒を振り回し、ヘラクレスがピンクのを着て糸巻を持っているのは

そういう次第。

 

このヘラクレスのポーズと、目線がいいですね。

目を伏せつつも、右上をちら見している。

衣裳が赤、グリーン、黄色と玉虫色で無駄に美しいのも素敵です。

この絵の様式は、16世紀後半あたりに流行ったマニエリスムに分類されます。

その特徴である、不自然にねじれたポーズが、二人のねじれた関係にぴったりきてますね。

 

こういう男女が逆転していたり、両性具有的なテーマというのは

すごく現代っぽいと思うかもしれませんが

当時、錬金術の概念を表すことによく用いられていました。

おそらくそういう土壌があって選ばれたテーマなんでしょうが、現代人の目で見ても面白い絵です。

情けない感じのヘラクレス。

こういう題材を楽しんだウィーンの宮廷。

なんかいいなぁと思うのです。

たのしそう、錬金術。

 

ということで、近々、絵の具体的な解説をしてみます。

見るほどにじわじわ来る絵2 の解説

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見てすぐに魅力を感じないかもしれないけど

見るほどに、じわっと来る絵というものがあります。

私はそういう絵が好きです。

山ほどストックがあって、どれから紹介しようかと悩ましいところです。

 

二枚目にスプランヘルを選んだのですが

この画家の説明もしたいし

この画家のスタイルである

”マニエリスム”についての分かりやすい解説もしたいという欲望が湧き上がっています。

でも、ひとまず、この絵の解説をしましょう。

 

Bartholomaus Spranger, Hercules and Omphale, c.1985, 

Vienna, Kunsthistorisches Museum.

 

よく出来た絵です。

 

1.目線をどんな風に誘導しているか?

2.どこが中心なの?それがはっきりしないのがマニエリスム

3.スプランヘルの特徴

 

 

1.画枠から目をはみ出させない工夫

 

画面の端にいくと、目線が画面中央に戻るように

気もちよいくらいに丁寧に工夫が施されています。

 

講座に来たことがある方は、こういう工夫がされていると

もう気づくかもしれませんね。

リーディングラインなんて言ったりもしますが

いわゆるリーディングラインだけではなく

人物の目線だとか

色の使い方なんかでも興味を中央に戻すようにしています。

 

2.メインは何?

 

目立つものは何か?と尋ねられたら

二人の人物を挙げるでしょう。

女装したヘラクレスと、素っ裸のオンパレです。

目立ちますね。

 

では、画面のど真ん中を見て見ると

特に何もありません。

ヘラクレスの糸を繰る手があるだけですね。

 

しかし、この手はとても重要です。

絵のテーマである男女逆転を端的に表していますね。

糸紬は女性の仕事。

それを男がやっている。

糸を作る、という作業自体も

何かしら錬金術と連動している可能性もあります。

分かりませんが。

 

そして、この目立つ二人のどっちが主役か分からない

という状況。

これ、マニエリスムの特徴なんです。

マニエリスムっていうのは、二つを対比させたり

二つを拮抗させたり、二つを絡ませたり

など、緊張感とか、なにかしら一筋縄ではいかないぞ

という頓智絵みたいなところが大きな特徴なんですね。

 

この絵でも、ヘラクレスの方が中央を右手で支配しているものの

座っている。一方、オンパレは立っているし、画面右半分を支配。

二人が分断されないよう、ヘラクレスの足が彼女の足にかかっているし

糸の原料(?)を盛った棒が二人を斜めにつなぐ役割を果たしていますね。

そもそも二人は衣裳を入れ替えた二人でワンセットの存在でもあります。

 

そんな風に見る絵なんですよ、なんかインテリごかしているでしょう。

そうなんです、マニエリスムってインテリ向けの絵で

全然一般受けしなかったんです。今でも、たぶんインテリ受けだと思う。

反対に、続く時代のバロック絵画はとっても一般受けするんですよ。

 

これがマニエリスム(16世紀後半)の前の時代の

ルネサンス時代(15世紀後半から16世紀前半)の絵であれば

明確に一つの主役がいてはっきりしているんです。

また、バロック時代(17世紀)もわりと主役が一つはっきりしていたりします。

こういうあたりに、マニエリスムらしさを感じますね。

 

さらにマニエリスムの特徴をもう一つ言うと、色彩が不自然ということ。

そんな色してるか?みたいな色使いです。

ヘラクレスの衣裳も玉虫色で、いわゆるカンジャンテという彩色法です。

ルネサンス全盛時代には、旧時代的(ルネサンスの前のゴシックの色彩の特徴)

ということでダヴィンチなんかがすごくバカにした色の塗り方です。

 

3.スプランヘルってこんな人

 

この絵に限らず、スプランヘルの絵はほとんど全部

男女の役割が逆転しているような

女性が妙にマッチョだったり、男性が妙に女性的だったり

両性具有的なのが特徴です。

マッチョでしょ。Minerva Victorious over Ignorance

サルマキスとヘルマフロディテこの二人は合体して両性具有になります。

女性が大きく描かれているのが注目ポイントです。

 

その理由として挙げられているのが

錬金術の概念を絵画で表しているのではないか

という捉え方。

 

この人はあの野菜で顔を描いたアルチンボルトの同僚で

仕えていた皇帝ルドルフ2世は超オカルト大好きで

めちゃめちゃ錬金術にドはまりしていた人です。

限りなく錬金術の影響があるんだと思われます。

どこまでどうだかは、錬金術に関する記述が

非常に象徴的だったり、暗号的だったりするので

分かりにくいため、確実にこうだ!というのが難しいという背景があります。

 

 

メトロポリタン美術館が出している本

 

Bartholomeus Spranger: Splendor and Eroticism in Imperial Prague Metzler, Sally (2014)

 

の表紙にこの絵が使われています。

ちなみに、私が参照しているのも、このSally Metzlerの論文で

"Artists, Alchemists and Mannerists in Courtly Prague"

Wamberg, J. Ed. Art and Alchemy, 2006に掲載されたもの。 

 

 

長くなっちゃった。

マニエリスムの説明もっともっとしたいけど

キリがないですね。

ひとまず、じわじわくる絵をどんどん紹介していきたいです。

私としても、一人で楽しむばかりじゃ勿体ない気がしているので。

どこでも美術館

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おすすめの美術館は?

そう尋ねられたら、素直にココ!と答える美術館もいくつかあります。

奈良の大和文華館とか、ローマのボルゲーゼ美術館とか・・・

 

でも。

でも。

私は敢えて言いたい。

 

どこでも美術館たりえます、と。

アート、美術品、というと、美術館とか画廊というイメージはあると思う。

でも、その枠をいったん忘れてほしい。

アートって、美術品って、優れた作品って、素晴らしい物や事ってどこにあるのか?

どこで起こっているのか?と。

美術館とは、あくまでも、専門家によるお墨付きをもらった作品たちの収蔵庫です。

何もそれ”だけ”にこだわる必要はないと思います。

 

例えば、歴史的建造物。

東京駅とか、国立博物館とか、丸の内あたりに沢山ある素敵な建物たち。

大阪なら北野とか船場あたりとか。

 

例えば、街並みだって美術館級に美しくて目の喜びになるところがあります。

金沢のひがし茶屋街とか、京都や鎌倉のそこかしこ。

我が町岡山なら吹屋なんて最高におすすめ!

 

考え方を広げちゃいましょう!

いくつか列挙します。最初の二つは、上に挙げたものです。

 

1.建物(古くても、新しくても)

建築家ベースで探したり、好みの意匠を見つけたり。

神社や寺も、建物という観点で見ることもできます。

城もね。あと、古い郵便局とか銀行とか。

 

2.街並み(街並み保存地区に指定されていても、いなくても)

 

路傍に、ひっそりとアート作品があることも。

また、街そのものが人々が作り、育てた作品のようなものです。

生きた作品です。

上に紹介した通り。私は新宿ゴールデン街とか、大井町や渋谷の細い路地の飲み屋街の

風景も大好きです。風情がありますね。

街が持つ物語を含めて眺めると楽しいです。

散歩してれば、ダイエットにもなります。

 

3.デパートのハイブランドのディスプレイ

 

是非、広告の写真も併せて見て!

エルメスとか、シャネルとか、グッチとか

眺めてると、ものすごく西洋美術史の血脈を感じます。

 

4.あなたの持つそのスマホ

 

スマホで世界中の美術館のサイトが見られます。

しかも、超高解像度。

凄いところは、臨場感あふれる、館内にいるかのようなパノラマで見せてくれるところも

ルーブルも、プラドも、メトロポリタンも、一瞬で行けるんです。

私たちは、凄い時代を生きています。

 

本物を見ることは勿論楽しい。

だけど、何もそれだけにこだわる必要なんてないんです。

 

5.図書館

 

図書館には、世界中の美術に関する大変に高価な本が沢山あります。

本当に沢山。

無料で見られるのです。

 

世界の名画を、静かな図書館で、指でめくりながら眺めることができます。

解説もついているので、勉強にもなります。

凄いことですよ!

 

6.高級なレストラン・日本料理のお店

 

手の込んだ料理は、食べられるアートともいえます。

ときどき、ちゃんとしたお皿に載った、ちゃんとした料理を食べに行くと

すごく現代アート的だな、料理人の方たちって現代アート勉強してるな、と思います。

お店の内装なんかも、流行を反映しているのが伺えます。

そういえば、私がパリで出会った和食の料理人さんは

ポンピドゥーセンターに行ってきた、と仰ってました。

 

アートは美術館だけで、ギャラリーだけで起こってるんじゃないんですね!!

 

7.ホテル・旅館

 

ホテルや旅館には、地元のアート作品・工芸品が展示されていることがあります。

びっくりするような作家のものが、当たり前のように置いてあることも。

ホテルによっては、建物そのものがアートなところもありますね。

私は奈良ホテルが大好きです。

 

8.本屋さん

 

本の装丁。

フォント。

色。

質感。

並び方。サイズ感。

 

9.神社仏閣などの宗教施設

 

実は、神社仏閣は博物館・美術館クラスの作品を所蔵しています。

例えば、秋篠寺には、大変に美しい伎芸天さまがいらっしゃいます。

また、優れた庭を持つところも多いですね。

たとえば、大徳寺とか、東福寺とか、塔頭ごとに凄い庭があります。

 

欧米の教会には、例えばベルニーニなんかは

美術館にあるのと同じだけ

教会にも作品があります。

聖テレサの法悦も、ハバククも、教会にあります

(なんと、無料で入れる・・・必ず敬意を払うこと。また、お礼に是非とも寄付したいものです。)

 

10.あなたのお家

 

自分の家を美術館のようにしたっていいんです。

きちんと片付けて、好きな作品を見つけたら複製でも飾ってみるとか

ギャラリーで気に入ったものを買ってもいい。

ファブリックだとか、壁紙だとか、家具だとか

そういったものも全て、アーティストたちが手掛けたもの。

 

岡山近辺では直島の美術館が「泊まれる美術館」として有名ですが

毎朝目覚めるたびに嬉しくなるような部屋にしたっていいんです。

 

私は、大正浪漫が好きすぎて、自分の部屋を漆喰壁にして

柱を荏胡麻油の塗料で濃色に塗り

博多帯をぶった切って箪笥や鏡のカバーにし

コンセントのカバーなどは真鍮のものに取り換えました。

満足です。

 

 

11.他にももっともっと!

 

映画館、スポーツの試合が行われる場所。

アーティストのPV、漫画、アニメ、ドラマ、雑誌。

CDのカバーとか。おもちゃ売り場とか。

報道写真の情報の部分だけでなく、写真としてのクオリティとか。

お花屋さんの店頭とか。電車、飛行機、車、車窓の景色、キリがないくらい。

幼稚園で子供たちが描いた絵が貼ってある壁だとか。

 

 

ありとあらゆる場所で、美術館で見るのと同じくらい

値打ちがあるものが、繰り広げられています。

 

目が覚めて、夜寝るまでの間のいつだって

目に入るものの中で、あなたが素晴らしいと思ったもの

それらを集めたら、それがあなたにとっての美しいもの、素晴らしいもの、優れたもの

気になるもの、興味をひくもの、面白いと思ったもの、だと思います。

 

是非とも、自分の感覚を大事にしてみてください。

そんな延長線上に、きっと美術館もあります。

美術館にあるものとは、いわば巨大なアーカイブみたいなもの。

プロが色々考えて集めたものですが

漏れたものだってある。

漏れたものの中にも、大事なものはきっとあります。

 

自分なりに、自分にとって大事なものを集めていくと

それが自分の軸になって

美術館という、歴史的に大事だと判断されたものの集積の意味も

見えてくると思います。

 

そうやって考えると、いろんなものを見るのが楽しくなりませんか?

なるといいなぁと思っています。

 

そのために、西洋美術の歴史的に重要な作品について解説しています。

何故なら、それらは、時代を通して優れている、素晴らしい、凄い、というお墨付きを

もらっている作品たちだからです。

そして、それは、人がどう人や物や自然を見てきたかという記録でもあるからです。

もちろん美術が全てではないけれど、人が何かを見るときの信頼できる指針・基準になるものです。

 

西洋美術史の知識は、いわば地図とコンパスみたいなものとして

使っていただけるよう

私に出来る精一杯、分かりやすいように

皆さんにお伝えしていけたら・・・と思っています。

 

いつも読んでくださってありがとうございます。

見るほどにじわじわ来る絵 3

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Adélaïde Labille-Guiard (French, Paris 1749–1803 Paris)

Self-Portrait with Two Pupils, Marie Gabrielle Capet and Marie Marguerite Carreaux de Rosemond

 
18世紀フランスの女流画家による自画像。
 
油絵を描いてるのに、ドレス。
袖!フリル!汚れる!
 
もちろん、こんな姿で描いてるわけじゃないけど、画家だという事を示すためと
アカデミーの会員という権威ある立場を表しているのです。
 
同じ頃、ルブランという女性画家もアカデミーの会員になっていて
彼女の自画像はこんな感じ。
Élisabeth Louise Vigée Le Brun
自画像 1790年

 

 
自我の表出の仕方の違いというのか、何らかの、何かを嗅ぎ取ってしまわざるを得ません。
 
女性が描く自画像は、男性が描く自画像と比べて
女の業?!みたいなものを感じたり
「自分をこんな風に描くんだ・・・」ということの意図を
つい想像していると、じわじわ来るんです。
そして、それが自分にも跳ね返って「自分はどうなんだ!」
と考えるのも面白いです。
 
ギヤールは、自分の実力に確固たる自信を持った人の情緒的安定を感じます。
ルブランには、もう少しだけ・・・挑発的?!何か、若さみたいなものを感じてしまいます。
 
それ以前に活躍した女流画家で、美術史の教科書に出てくる人は
ルネサンス後期にソフォニスバ・アンギソッラ
バロック時代にアルテミシア・ジェンティレスキらがいます。
17世紀になると、わりと女性画家の名がちらほらと出てくるようになるのです。
 
この二人は、歴史上有名な女性の名前をとっているのも印象的です。
ソフォニスバはザマの戦いでスキピオを助けたマシニッサの元許嫁の名で
アルテミシアはアケメネス朝の女提督の名前です。
活躍する女性の宿命?!みたいなものを想起してしまい
私はこの二人はファーストネームで呼んでいます。
ソフォニスバ・アングイッソラ  自画像 1556
(パレットの色数少ない!!手を載せる棒を使ってますね。これで手首が安定するんです。便利)
 
落ち着いた知的な印象を受けます。
 
アルテミシア・ジェンティレスキ 17世紀
 
この角度!
うまく表現できないのですが・・・自分の世界に陶酔しがちな人と思われても
仕方ないように描くことに、ためらいがない人なのかな、と思えます。
 
そんな16世紀、17世紀の二人に続いて
18世紀にはギヤールやルブランみたいにメジャーに活躍する人たちが出てくるというわけです。
 
では、解説ではギヤールのこの漲る自信のもとである
安定した技量のすばらしさを、細かく見ていきましょう。
 
 

見るほどにじわじわ来る絵 3の解説

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女性画家の自画像というテーマで

見るほどにじわじわ来る絵として

マリー・アントワネットの時代に活躍したラビーユ=ギヤールを選んでみました。

 

この時代の画家は、ロココ様式と呼ばれる画風で

その後のモダン・アートの時代に「体制側の絵」というレッテルを貼られて

あまり高い評価を受けなくなっていくのですが

現代人の目から見ると「素直に上手いと分かる目に麗しい絵」でもあります。

 

下のギヤールの絵を見ると

サテン(?)のドレスの反射が床に描かれています

うっすら水色が床にうつりこんでいるの、ちょっと確認してみてください!!

こういう、上手いな、って感じの技術がそこここにきっちりある画家です。

ドレスの質感とか、床とか、キャンバスとか、木、麦わら帽子に羽飾り

質感が違うものを描き分けてる、上手いなギヤールさん、みたいな風に見ます。

 

絵の左奥に見えるのは、ギヤールの父の胸像らしいです。

さらにおくには、ヴェスタル・ヴァージンという古代ローマの

巫女さんの像。ギヤールらの立場を投影してるんでしょうか?

 

 

手前(右の椅子、イーゼル)から主役、弟子の二人

そして画面奥への奥行も少しづつ奥まっていく感じが

自然ですし、変化を表現しきれていますね。

かといって、視線や関心があちこちに散ることなく

主役が主役然として、わき役がわき役としての序列がきちんと描かれている。

それに見合った陰影の配分が行われている。

 

すごいな、ちゃんとしてるな、というところを味わうものです。

 

ロココとか新古典派とか、そういう時代の絵は

「紋切型」です。そして規範に基づいていることは

この時代の画家にとって望むことであり、正しいことだし

紋切型というのは誉め言葉でもあります。

私たちは、新奇性や珍奇なものをもてはやすモダン・アートの時代に生きているので

この感じはつかみにくいかもしれませんが、この時代はそういう時代です。

 

下の図で、赤い線がちょうど1/3のライン、青の点線がちょうど5/8のラインです。

こういった「基準線」とみなされていた位置に、きちんと計算して配置しています。

 

長方形の幾何学をシンプルに用いるのも

18世紀~19世紀のフランス絵画の特徴です。

 

主役はギヤール本人ですが、パレットを抱えたあたりが

第二の焦点になっていて

そこを中心に絵が渦巻きみたいに配置されているのも

いろいろ描き込んであるのに、求心力があるゆえんです。

そんなところも、見ごたえのある絵ですね。

安定した技量、それを落ち着いた態度で示している。

しかも、ひけらかしている、という感じでもない。

(そういう画家もいます、誇示する感じの絵もあります。)

自信がある人の余裕を感じる絵です。

 

ギヤールはフランス革命を経験するのですが

革命に同情的だったようで

生涯フランスにとどまったということです。

 

 


見るほどにじわじわ来る絵 4

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いつも読んでくださってありがとうございます。

少しでも、絵そのものを、皆さんにもっと楽しんで見てもらえる方法はないだろうか

毎日そのことばかり考えて、ひたすら庭の草をむしっています。

 

そして最近、はりきって頑張っていることがあります。

なるべく早く、良い報告が皆さんに出来るといいなと思っています。

 

では、今回の見るほどにじわじわ来る絵です。

 

エドウィン・ロングの「バビロニアの花嫁市場」1875年の作品。

 

この絵の何にじわじわくるかというと・・・この絵、たぶん、知らないですよね。

見ても、フーン、って感じですよね。上手だな、くらいに。

 

でも、この絵は Thomas Hollowayという人が 1882に6615ポンドで買った

当時との生きている画家としては最高値をつけた記録的作品だったのです。

それを知ると、急にじわっと来ませんか?

 

エドウィン・ロングは生きているときにとても評価され

ちゃんと売れた画家でしたが、今、ロングを知っている人はどれくらいいるでしょう?

 

じわっと来ます。

 

そして、テーマであるバビロニアの花嫁市場ですが、これはヘロドトスが『歴史』で

そういうものがあると書いたので(本当にあったかどうかは疑わしい)

異国情緒や古代趣味が盛んだった19世紀の終わり頃なので

そういう雰囲気の中で描かれたものです。

流行りだったのです。

 

よく、生きているときに評価されなかった非業の画家の話なんかが映画になったりしますが

忘れ去られてしまう画家もいるものです。

 

どうやら最近は、こういうアカデミー系(古典的な技法で描く)が

その分かりやすさから人気みたいなので、もしかすると再燃するかもしれません。

 

次回は、いつになるか分からないですが

エドウィン・ロングの技術的な凄さみたいなものを紹介してみたいです。

クールベの『オルナンの埋葬』とか、

アングルの『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』 

とかに通じるものがありますが

お手本みたいな構成ですね。それが味気ないという風にも取られてしまうのですが。

 

【解説編】見るほどにじわじわ来る絵 4

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暫くのご無沙汰でした!

 

こんなに更新があいた言い訳をしておくと

エドウィン・ロングの話をするんだから、アカデミー絵画について

もっときちんと勉強しておこうと思って

ペブスナーの『美術アカデミーの歴史』を読んだり

アカデミー絵画の技法の本を読んだりしているうち

画論の変遷を確認していたら、そういえばインド美術や中国美術についても

画論の変遷があった・・・ノートにまとめておこう!あぁ中国でも同じような話が!

あ、そうだ、南北朝時代の偉大な画家・顧愷之のエピソード読んでおこう『世説新語』で。

やだ面白い、顧愷之はサトウキビをしっぽから食べてるよ「だんだん佳境に行く」だって。

なんてやっているうち、アレ?私、何やってたんだっけ?

みたいな感じで一か月以上経ってしまいました。

いつもこんな感じなんです・・・・。

 

お待ちどうさまでした。

 

さて、エドウィン・ロングの『バビロニアの花嫁市場』(1875年)という絵についてです。

 

私はこの絵を見ると、じわじわと色んな思いがこみあげてきます。

 

”じわじわ”の理由

 

この絵は、当時、生きている画家の作品として最高額をつけた絵です。

いわゆる「画壇(アカデミー)」にみとめられ、実力と人気と評価と全てがあった画家です。

そして、そんな画家の名前を今や

美術史でイギリス近現代絵画のクラスを取った人くらいしか知りもしない。

 

ふと思います。

今生きている画家で、最高額が付けられる画家の作品はいずれどうなるのだろう?

 

この絵が描かれた前の年、1874年には印象派の展覧会があって

当時酷評されました。ところが、今ではロングの何倍もの値段で

何倍もの知名度で大人気という次第です。

彼ら印象派は当時、画壇から「はみ出し者」の扱い。

一方、ロングのようなアカデミーの画家たちは、時代遅れの死に損ない扱いで

クソみそに言われるようになっていくのです。私は好きですよ(保険)。

それにここ数十年、アカデミー絵画の人気が復活してます(本当)。

クロード・モネ 『印象・日の出』 1872年

ロングの絵と比べると、描きかけのように見えると思います。

筆の跡がはっきり分かるし、陰影のつけ方も全然違いますね。

 

美術を勉強していると、画家の社会的地位の浮沈、絵画の社会における意味の変遷

価値の変遷、持ち上げられたり、忘れられたり、また再評価されたり、そしてまた蹴落とされたり

そんな歴史を勉強することになります。

 

かつて絶対だった考え方が、あくまでも一つの考え方にされたり

かつて多くの人に支持された考え方が、多くの人に非難されるようになったり。

この絵の題材の元になったヘロドトスの『歴史』の冒頭(巻一:6)にも

「かつての強大だった国の多くが、今や弱小となり、私の時代に強大であった国も、

かつては弱小であった」と述べています。

当たり前と思っていることが、当たり前でなくなる時が来る。

 

人はつい、自分が生きている目の前の生活で精いっぱいになってしまって

自分たちの世界にも、いつか同じような変化が起きると想像する余裕が

持てなくなってしまいます。

私も、いつか、目の前の素晴らしいと言われているものがこき下ろされたり、

今はバカにされているものが最上級だと言われたりする日が来るかもしれない

と念仏のように唱えてみるのですが、それが具体的にどういう風に変化するのかは

想像もつかないのです。

 

少なくとも、ルイ・ヴィトンのデザイナーがマルセル・デュシャンが一番好きだ

と言うような時代になったのです。

パンクな芸術を、エスタブリッシュメントが支持するものになったということ。

そのエスタブリッシュメントも、ストリート系というかつての傍系から出ている。

 

盛者必衰とも言いますが、上がって、下がって、という単純なカーブを描くとは限りません。

絵画の歴史も、単に生前評価されなかった画家が巨匠になりました、とか

巨匠だった人が忘れられました、というような単純なものではありません。

上がったり下がったり、少し上がってまた下がったり、少しづつ上がったり・・・・

それに、中国史上最初に名前が出てくる偉大な画家・顧愷之なんて

一枚もオリジナルの絵が残ってないんです。

なんなら、中国では宋以前はほとんど誰の絵もちゃんと残ってません。

 

もう一つ、じわじわの理由があります。

やっぱり、ロングのような画家は

きちんとちゃんとデッサン力もあるし、絵具もきちんとハンドリングできるし

構図もきちんとお手本みたいだし、凄いなぁ、って事です。

安心。そして、この安心が、絵に安心など求めない人にとっては

不愉快に見えてしまう事もある。それが主流の時代もあるという

そういう人間社会の多面的な様相に、驚きを、感じざるをえません!

 

どういう場面を描いているのか?

 

ロングの所属している画壇では、歴史をテーマにした絵がもっとも立派だと信じられていました。

だから、この絵も当然「歴史」的な何かを描いたものなのですが

どういう場面なのでしょう?

ヘロドトスの『歴史』の「バビロンの国土のその風習」に関する以下の

記述をもとにした絵なのです。

 

「嫁入りの年頃になった娘を全部集めて一所へ連れてゆき、その周りを男たちが大勢とり囲む。呼出人が娘を一人ずつ立たせて売りに出すのである。先ず中で一番器量のよい娘からはじめるが、この娘がよい値で売れると、次に二番目に器量のよい娘を呼び上げる。ただし娘たちは結婚のために売られるのである。嫁を貰う適齢期になったバビロンの青年たちの中でも富裕なものは、互いに値をせり上げて一番器量よしの娘を買おうとする。

(中略)このような素晴らしい風習がこの国にはあったのに、今はもう存続していない。」

 

ヘロドトス『歴史』巻1:196

 

画面右中央に立っている女性が、その器量の良い先に売られる娘なんでしょう。

次の娘が左端でスタンバってますね。

不器量な娘は売れないから、いくばくかの持参金をつけてくれるため、貧乏な男性はむしろこちらを選ぶ、という凄まじい記述が略したところに詳しく書いてあります。

一番右端に顔を覆っている女性がいますが、この人は持参金をつけてもらうんでしょうか。

 

バビロニア人の名誉のために言っておくと、そのような風習があったという証拠は、この記述以外にはありません。ヘロドトスの名誉のために言っておくと、この本の主題はペルシャ戦争で、この抜粋箇所はところどころ脱線し、て面白い地方の話が織り交ぜてあるうちの一つに過ぎません。アリストテレスだって女の歯が男より少ないと思っていたくらいですから、この程度は誤差だと受け止めてください。

 

↓この一節だけに特化した論文もあります。ちらっと読んだけど、ノースウェスタン大学(名門)の人で、むしろこの風習はギリシャにあったものを仄めかしているのでは?というような説でした。こういう視点がないと、ヘロドトスの歴史家としてのスタンスが見えてこない、というような面白い考え方。あまりにも時代がへだたって、作者の真の意図が掴めないのがもどかしいですね。

 

Richard A. McNeal. "The Brides of Babylon: Herodotus 1.196."

Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte

Bd. 37, H. 1 (1st Qtr., 1988), pp. 54-71.

 

19世紀の終わり頃というのは、科学的な発掘調査がさかんに行われ

あちこちの地域の古代の様子が、どんどん明らかになっていった時代でもあります。

画壇(アカデミー)の画家たちは、18世紀くらいから、きちんと時代考証した歴史画を

描く習慣を持ち始めていました。

 

ルネサンス時代だって、古代に興味を持っていたんじゃないの?

と思うかもしれませんが、当時はあまり考古学が発達していないので

ローマ時代の貴族の庭のちょっとした祠的なものが、古代ギリシャのメジャーな神殿だと勘違いしていたり

(この建物も、じわじわ来るので、是非次に取り上げたいものです。)

いろいろ勘違いの上に乗っかってできたフィーリング的なものでした。

 

ロングは、当時細心だったそのような考古学の調査結果なども、とても頑張って勉強して

絵を描いていたようです。確かに、人々が・・・ちょっとアッシリアっぽい気もしますが、背景のタイルっぽい壁の装飾なんかはバビロニアっぽいような感じです。

すごく丁寧に遺物の実物を見たり、本などで調べたりしたんだろうな、と思われます。

出来るだけ、時代考証をちゃんとしよう、という精神があります。

 

これが17世紀あたりの画家だったら、古代人でも当世風の衣裳や意匠で描くことに

ためらいなんかありません。聖書の人物も、同時代の人の装束で出てきます。

その点、19世紀末のアカデミーの画家は、

そういうところ、ちゃんとしたい、という気もちが強い。

そういうところが出てますね。

アルマ=タデマ 『クローヴィスの子供の教育』(1861年)

 

だから、この時代に他にも活躍してたアルマ=タデマなんかも

ハリウッドの歴史もの映画なんかに影響を与えたと言われています。

この手の絵画は、映画でそれっぽい演出をする際に参考にできる「再現映像」的なもの

としての役割を果たしたという功績もあるんですね。

何がどう転ぶか、分からないものです。

 

今日はひとまず、ここまでで区切って

次にもう少し構成のようなところのお話をします。

まずは、どんな絵だったか思い出していただけたら幸いです。

ヘロドトスの『歴史』はめちゃめちゃ面白いです。

紀元前5世紀の本が読めるなんて、考えてみれば凄いですよね。

それもまた、じわじわ来ます。

こんな感じで、絵を見て面白いなぁ、なんて感じたりしています。

そういう、あぁ、面白いなぁ、が少しでも伝われば・・・と思って書いています。

 

 

 

【解説編つづき】見るほどにじわじわ来る絵4

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 『バビロニアの花嫁市場』の絵のように

大勢の人物を一枚の絵に配置するとき

どんな工夫が必要でしょう?

 

1.沢山の人を無理なく画面に収める

 

ごちゃごちゃして、何がなんだか分からなくなっては困るのです。

そして、絵の全体を楽しんでほしいし

テーマをちゃんと表したいという意図も達成したいのです。

 

まず、ごちゃごちゃしないためには、群像を

円形に配置するのが一番、無難と言われています。

実際、ロングもそうしていますね。

もう少し人物が少ないと、三角形の配置もいいのですが

大勢いる場合には画面をいっぱいに使えるし、円形が有効なチョイス。

 

 

しかし、です。円形に配置したらいい、というのは絵を描く人なら

大抵は知っているのです。すると、あまりにあからさまに円形に配置すると

つまらないな、って思われてしまいます。

 

(クラナッハの分かりやすい円形の配置。これはこれで素敵だけど、あからさま!)

 

そこで、あからさまでない、なんとなく円形、かつ自然に、という配置を心がけるのです。

ということで、ロングの絵のように、つぶれたコッペパン型が

19世紀あたりの群像画にはよく使われます。

自然!

 

2.主役は主役らしく目立たせ、『花嫁市場』の場面を分かるように描く

 

この絵の主役って何でしょう?

売られる花嫁たちが主役です。

この中でも、二人の人物がそれぞれの方法で目立つように工夫されてます。

 

そもそも、目立つってどういう事でしょう?

画面の中で目を引いて、これが主役だな、って分かる仕掛けです。

いくつか方法があって、これを上手く組み合わせて

画家は描きたい絵を表現しています。

 

この絵は、大きく分けて3人目立つ人物がいます。

どうして目立つのか、それにはちゃんと理由があります。

 

まず、画面中央に座る、こちらを見据える女の子。

彼女が目立つ理由は、3つ。

真ん中にいるということ。

鑑賞者をじっと見つめているということ。

白い石を背景に真っ黒い髪の毛で、コントラストが激しいから目立つということ。

 

 

この絵は、彼女だけが主役ではありません。

もう一人の主役は、現在セリにかけられてる台上のベールをかけた女性です。

彼女は、最初の娘が目立つ理由とは違う理由で目立つように工夫されています

まず、他の人物の注目が彼女に集まっているのが分かります。

目線、人々の顔がそちらに向いている。手も向いている。

そして、介添えの女性(褐色で、彼女とコントラストを持たせている)の腕も

彼女に矢印のように向けられている。

背景の壁画の線も彼女に向かっている。

左の三番目に目立つ黒い台の上の男性も、大きく彼女に向けててを伸ばしている。

 

何より、この群像を配置する円形の中で、彼女が一番「高い」位置に置かれています。

 

左の男性も、画面の中で目立つ存在ですが

実は彼は、絵の主題から考えても

前の二人の娘を目立たせるため、絵の上では二番手の存在にすぎません。

彼がいないと、右側に主役の売られる娘がいるため

画面の左側ががら空きになってしまいます。

バランスを取る要素としても、何か目立つ存在を画面左側に置かないといけないのです。

そして、彼はたぶん、セリの主催者だと思うのですが

彼は物語の上でも主要な人物であり、その画面左側を受け持つのに十分な存在であります。

 

では、画面の真ん中の娘と、売られる娘と、どちらが主役なのか?

これは、どちらも主役だと言えます。

どちらかが優位になりすぎないよう、微調整されているとも言えます。

目立つ工夫も、差し引きでちょうど同じくらい。

 

画面の中に、楕円の二つの焦点のように

売られている娘、これから売られる娘が

それぞれ、後ろ姿、正面から描かれています。

この表現の妙は、現在イベントの主役である娘の方が後ろ姿で

これから売られる娘(イベントの裏側にいる)が、絵の文字通りの中心になっているところですね。

 

今売られている娘を正面から描くという選択肢もあったわけです。

 

あえて、それを逆転させることで、今起こっていること

これからどういう事が起きるのか、という時間的な経緯も描ける。

そこで、円形の配置が生きてくる。

次があの子で、その子が次・・・と順繰りに番が巡ってくるのが、目で追えるわけです。

 

あぁ、考えてるなぁ、凄いなぁ、ロングさん。

ということになるんですね。

 

3.全体を損なわない範囲で、細部にもささやかな物語が進行している

 

目立つ人がちゃんと、目立つ。話が見えてくる。

しかも、画面全体を損なうほどに、主役だけが目立っているわけではない。

他の部分も、ちょっとずつちゃんと見ごたえがあって

なおかつ、画面全体の中で一つづつ役割を担っている。

そういう構成になっています。すると、画面の重点もあり

無駄なく使えて、どこを見ても何かしら見どころがあるようになっている。

つまり、ケチがつけられない。ちゃんとしてる。

 

画面左端では、次の女の子が準備しているし

その次の女の子は鏡で美貌のチェックに余念がない。

右端のほうの女の子は、どうやらすでに、買い手がついた模様。

一番右端の娘は、絶望しきっているし

客の中には、何か商売を始めている人もいたり

カーテンの奥から覗いている人がいたりもする。

さらに、画面手前の毛皮は、シマウマ、ライオン、虎など

いろんなのを描き分けていて、さりげなくテクニックも見せつけている。

 

しかも、ライオンの毛皮が、さりげなく画面下側にかかっていて

これが画面への導入になっています。スライドインできるしかけ。

 

そこから始まって、画面を順繰りに見ていけるよう

娘たちの目線、身振り手振り体の向きが、中央の娘を要にして

扇形に配置されつつも、ちゃんと横へ、横へとバトンが渡されるようにつながっているのが

分かるでしょうか?

すごい細かい技術です。

 

そして、画面の両側では、ちゃんと円形に目が辿れるように

何かしら画面中央に目線を戻すための工夫がなされています。

人物がちゃんと 【 】 状に配置されているんですね。

面白いですね。

細かいところまで、ちゃんとしてる。

 

これが19世紀のアカデミー絵画というもの。

ちゃんと計画して、きちんと一つづつデッサンして

きちんと陰影の加減を最初から計算して

順番に丁寧に仕上げていく。

表面も、筆跡が目立つようなことのない滑らか仕上げ。

知的な職人芸です。

 

私がここで述べたような、ここがこうなってるから凄い!というような事は

当時はある程度、絵を見る人には共有されていた知識だったと考えられます。

ですから、当時は説明がなくても良かったのですが、今では知らない人も増えてきたので

説明が必要になったと思います。

 

こういう絵は、理性の時代といわれる18世紀が生んだ産物でもあり

19世紀の浪漫派には我慢ならないものでもあありました。

 

アカデミーの絵画(本当は地域・時代によって少しづつ違うのですが)は

機械的で紋切り型だと批判されましたが

その良さもちゃんとあります。

でも、もっと情念やほとばしる即興的な情熱を表現したい人には

どうにも凝り固まったものに思えたようですね。

 

もちろん、何かを絶対化するのが問題なのであって、こういう絵が全くダメということではないと思います。

ですが、当時は行き過ぎた攻撃があったようにも思えます。反動ですね。

 

名画の模写・研究、厳しい人体デッサンの訓練

こういう絵の学び方を、創造性を殺す!と思う人もいます。

しかし、ロングみたいに描けるようになりたかったら(そういう人もいる)

そういう練習をするしかありません。

しかし、現代の日本では、あまりアカデミー的な教え方は学校では好まれません。

創造性を殺すと思われているからです。

果たしてそうでしょうか?

 

どうやら、中国でも同じような議論がかつてあったようです。

文人画と宮廷画の評価をめぐっても、パッションか技巧か、などの話が出てきます。

 

どちらが優れているのか?という視点ではなく

それぞれの良さを、各自の好みに応じて選べるのが

豊かだと思うのですが、どうでしょう?

それとも、競い合う中で、より優れたものが生まれるのでしょうか?

 

絵画作品を見えていると、そういった問題を私たちが抱えていることに

気づかされます。そして、過去の人々がそういう問題にどう向き合ってきたのかが

学べるのも、絵画の歴史であります。

 

そうやって見ていると、絵って面白いなぁって思います。

逆にそうやってみないと、そんなに面白いと思えない私は

無粋な人間なんだなぁと、浪漫派じゃないんだな、美術のための美術

という純粋美術がピンと来ていないんだなぁ、と思います。

 

私と同じように感じる人もいると思い、そういう人にとって

少しは納得のいく「絵の見方」になるんじゃないかと思っています。

この夏いちばんぞくぞくした本

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碾き臼やその上石を質にとってはならない。

持ち主の命を質に取ることになる。

 

この本を読むと、この聖書の言葉の意味がずっしり来ます。

読んで本当に良かった!

 

 

私は身内に何人も、借金で身を持ち崩した人がいますが

それを見るにつけ、その末路を見るにつけ

いったい、どうしてそんな事になってしまうのだろう?

と考えてきました。

 

俺が買った絵なんだ、俺が死んだら一緒に燃やしてくれ

という言葉が、どうして人の反発を生むのか?

 

今は滅亡した民族の古代遺跡から出土した文化財は

いったい誰のものなのか?どういう基準で考えたらいいのか?

 

親の言う事が聞けないの!

という言葉に感じる違和感は、どう説明すればいいのか。

 

私が普段から、モヤモヤモヤモヤしていた思いに

綺麗でまっすぐな光が差したようです。

 

ローマ法の先生が、中高生を相手に、古典文学(ギリシャ悲劇!)や古典映画を通して

法とは誰のために生まれたのか、文学や映画の読み解きをしながら教えてくれます。

それがものすごく面白い。

しかも、対話相手の中高生が壮絶なまでに理解力高い。未来は明るい。

そもそも、題材そのものが面白いのに

その意味や、凄さが、すごく分かる。

フィロクテーテースとアキレスの息子の話なんて

思い出すだけでも泣けてくるくらい良い話です。

 

二人をガンダムに例えるなら、UCのバナージとマリーダさんみたいな関係の話。

オデュッセウスが連邦政府やヴィスト財団に相当します。

「戦闘単位なんかじゃない、あなたはマリーダさんだ!」というセリフが

替えのきく全体主義の中の一人ではなく、かけがえのない個人であるという事を示している。

なぜ、バナージはガンダムのコックピットから出て生身で相手を説得するのか

そういうことも、この本は教えてくれます。

フィロクテーテースの弓を返してから、相手と話すということなんです。

そして、どうしてZZガンダムがあんなにバカにされるのか

(私はうっかりZZから見始めた爪弾きものです)

主人公が集団と切り離された個人ではない、という点に気づいて初めて納得できたのも

この本のおかげです。読んでよかった。

 

話がガンダムに反れてしまいました。

 

私が絵画の傑作で伝えたいと思うことと

ちょっと似てると思いました。

ちゃんと議論できる。ちゃんと示すことができる。

その素晴らしさは、ふわふわした、曖昧なものじゃない。

きちんと、言葉で示すことができるし、その努力をしていかないと

私たちはいったい何を大事にし、何を素晴らしいと思っているのかも

分からなくなってしまう。そうすると、自分が大事なものが何か分からなくなってきて

だとしたら、何を守るべきかもわからなくなってしまう。

そんなの、不自由です。そんなの私は嫌です。

 

私のとても親しい友人が弁護士さんなんですが

「法は不可能なことは要求しない」

「必要な法は、必ずある。だから司法試験は暗記試験じゃない」

「むなしいと思うことが沢山ある」

そう言う理由が、ほんの少しだけなのですが

垣間見えた気がします。

友人の気持ちが少しだけ理解できたことも、とても嬉しいことです。

 

つまり、日本の法の世界にも、ガンダムUCで例えると

ラプラスの箱に相当するものがあるわけです。

そういったものは、いろんなところにあるんだと思います。

それでも、私たちには学ぶ自由があり、論理的に思考する自由がある。

努力する自由もあるし、人とその結果をやり取りする自由もある。

それを大事に、精一杯生かしていきたいものです。

 

勉強するのは本当に楽しいことです。

私が通った大学の塔の壁に

「あなたは真実を学び、真実はあなたを自由にする」と刻まれていました。

本当にそうだ、と思います。

自由が何で、その自由をどう乗りこなすのか、その乗りこなしかたを知ることが

私の勉強の一つの目標です。一つ知るたびに、見える世界が広がります。

その見える世界は汚いものばかりじゃなくて、素晴らしいものが沢山ある。

勉強できる環境に、時代に、その幸せに

それを言ってもよいということに、ひたすらなんだか感謝が湧いてくるような本でした。

 

その先は、自分次第。

しつこくガンダムUCから、ブライト・ノアの言葉を引用すると

「絶望に押しつぶされない勇気を持て!」です。

 

 

 

私の日々のおすそ分け

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近いうちに、ご報告等できたらいいんですが・・・

「今年はセミナーやらないの?」の声もあるにはあるのですが

今年はあえて予定なしで、来年以降はじゃんじゃんやりたいです。

今はそのための準備中・・・と思っていてください。

 

最近は、私、隠者?と自分でも思うくらい

隠棲して、コツコツ、コツコツ、コツコツ作業中です。

近況報告にかえて、私がどう日常生活をアートフルに(恥ずかしい表現)しているか

おすそ分けします。

 

私のおこもりライフを支えるのが、YouTube!!!

なかでもキティちゃんがユーチューバー・デビューしたのは評判になりましたね。

「キティ、エゴサとか結構する」の発言に

プロ意識のなんたるかを、改めて感じた次第です。

 

DVDもめちゃめちゃ見るんですが

「北野誠のお前ら行くな」シリーズは民族学的ですし、昔から大好きで

そこから生まれたスター・松原タニシの「怖い間取り」が

ベストセラーになったということ、感無量です。

売れたね、タニシ君、と親戚のような気分。

タニシさんは、ユーチューブで「おちゅーん」という番組を毎週やっていて

それもすごく面白いです。

 

美術展とか、行ったほうがいいかな・・・と強迫観念に追いつめられるのですが

行きたい、と思うときだけ行くようにしています。

今年初の美術館は、先月。地元の美術館でやってる「山水」展に。

重要文化財目白押しで、地方の美術館はこんなにすごいのを並べても

空いてていいな、と思いました。きっと、運営的にはよくないんだと思うのですが

椅子にもゆったり座ることも出来るし、ゆっくり見られます。

素晴らしいです、ありがたいです。

 

同じ理由から

地方の郷土資料館とかも、おススメです。

たいていどこも無料で、なのにものすごく丁寧な解説をしていて

大抵空いていて、なのに見どころが豊富なのです。

岡山県浅口市の鴨方資料館は、図書館と併設していて

係の人があわてて鍵を取りに行って開けてくださるという

アットホームな対応に、感涙。

http://www.city.asakuchi.lg.jp/shisetsu/bunka/images/kamogatakyoudo.html

麦稈真田の製造道具が展示されていて、貴重で素晴らしかったです。

昔のパスポートも展示されていて、たまたま私と苗字が同じ人だったのも印象的。

近所に三ツ山という名所もあるし、美味しいお料理のお店もあります。

しかも、そのお店には、狩野芳崖と金島桂華が飾られていました。

老舗すごい。世の中には、何が起こるか分かりません。

 

そんなこんなで、面白いものって身の回りに山ほどありますね。

どうしてこんなに、面白いものが世の中にはあるんだろう

感慨深いものです。

そして、コツコツ、コツコツ日々やってますので

来年以降にご期待ください。

でも、出来るときは何かしら更新します。

「おちゅーん」面白いです。

 

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