どの絵が好きですか?
どの画家が好きですか?
と聞かれることがあります。
そして、いつも答えに窮します。
なぜなら、別にどの絵が好きとか、どの画家が好きとかがないからです。
絵と空間が生み出す「場」を楽しみたい
なんでもいいのか?と言われれば、そうではありません。
私は特定の絵を切り離してじっと見るより
その絵が飾られているとぴったりくる雰囲気の時と場所で
楽しむのが好きなんです。
例えば、2年前に親友がパリジャンと婚約し
彼が洗礼を受けた教会で式を挙げることになり
立会人の私はパリに行く事になったときのこと。
せっかくなので、式だけではなく諸々と楽しもうということで
カルティエ・ラタンのクリュニー中世美術館に行きました。
![]()
15世紀終わりころの建物です。
その一隅に、あの『貴婦人と一角獣』のタペストリーが6枚全部かかっています。
建物と同じころのものです。
私以外は誰もいなくて、一度だけ小さな男の子とお父さんの親子連れが入って
すぐに男の子が駆け出していき、お父さんも追って出たので私一人。
![]()
西洋茜(赤)とタイセイ(青)とウェルド(黄色)で染めた、大変に貴重で高価な作品で
ガン〇ムでも取り上げられたから日本でも人気です。
それを独り占めで眺める事ができました。
こういうのが好きなんですが、このタペストリーが好きかと言われたら、そういう訳でもありません。
人込みの中で見たら、同じものでも違って見えるだろうし
建物も時代が同じってだけで、タペストリーと文脈が厳密には合うわけでもないけど
MOMAの壁にあるのとは気分が違う。
親友の幸せな様子を見てほっこりしてるときだから、ユニコーンとか見ても可愛いと思えたりします。
そのときの、私の置かれた状況、作品の状況、時と場と間と、全部で生まれる体験です。
それは一言では言い表せないし、全体として掴んだもので
とても何か一つの要素に還元して説明できるものでも、したいとも思わないものです。
でも、出来る限り言い表したい。
文脈を大事にするアジア人、単体で楽しめる西洋人?
日本人・・・アジア人全般が「高コンテクスト社会」に生きていると言われています。
文脈だとか、背景だとか、関係性なんかを重視する社会ですね。
一方、西洋人(というか主にアメリカ人)は低コンテクストで作品も単体で
文脈と切り分けて見る傾向が強い、と言われています。
つまり日本人は、そもそも西洋人のように作品を周囲から切り離して単品で楽しむより
それが置かれた文脈や背景を重要視する傾向が強い。
例えば、お茶の文化なんかがそうですよね。
季節から、庭から、軸から何から何まで、関係性の中で価値が”生起”する。
原因と結果の線的なイメージでなく、関係性の中で出現するイメージ。
光琳のカキツバタだって、4月、5月にしか公開しない。紅白梅図だって1、2月。
それは、季節感というコンテクストを重要視するから。
では、西洋の絵を見るときだけ、西洋人風に切り離してみる事ができるでしょうか?
たとえ西洋の絵を見るにしたって、岡倉天心が言うように
私たちは日本人として西洋の絵を見ている、のではないでしょうか。
私も日本人なので、やっぱりどういう場でどういうタイミングで見るかがとても大事に思えます。
それは、単に見るというより、総合的な体験として大事なんです。
というより、いろいろ試して、そうやって見るのが一番楽しいと私は思っているんです。
なんとなくですが、西洋人の中でも体験型のアートが好まれるようになってきて
文脈を大事にするのは、何も日本人やアジア人だけではないような気がしています。
西洋人も、全体的で包括的な”体験”を楽しんでいると思います。
そういう味わい方って面白いな、というのが共通理解になりつつあると思えます。
むしろ日本人こそ、西洋の文化を理解し吸収する力が他のアジア人に比べても強かったため
過剰に単体で絵や芸術作品を楽しむ努力をやりすぎたのではないか、と感じることもあります。
本当に日本人は勉強熱心で、本格的な人が多いです。
大行列してぎゅうぎゅうで、絵の様式と全くあわない建物の中で
天井が低いところでぎりぎりに詰めた大きな絵を見る。
これが悪いわけではありません。
素晴らしいものは、どこで見ても、どうやっても素晴らしいには違いないんです。
しかし、文脈から切り離して単体で理解しようとするそのストイックさには
時々、申し訳ないような気持ち(私のせいじゃないけど)になります。
もっと日本人にとって取り組みやすいプレゼンテーションにしてくれ!と文句を言わない。
でも、西洋美術だって、私たち日本人なら、日本人らしく
場や間や関係性を重んじた見方を望んでもいいと思うんです。
それは、決して西洋の美術の価値を損なうことではなくて
より深い理解につながると思うし、西洋人自身が気づかなかった魅力の発見にも
繋がると思っています。
「見る」ことだけを切り離すことなんて、もちろん出来ない
「絵の見方」を伝えるため、私はこんなに張り切っていますが
根源的な事を言えば、「見る」ことを他の要素から切り離すことなんて出来るとは思いません。
出来ないけど、便宜上、基本的な事を学ぶために切り離してお伝えすることになります。
全体的で包括的な体験にもっと自覚的になるため、そしてその精度を高めるために
過程の一つとして「枠をかけて見る」方法をお伝えしています。
今のところ、「構図」・・・「色」「バランス」「比例・比率」「目線誘導」などです。
全体的体験を大事にするとき、ある側面に特化することは、何か大きな間違いを犯すというか
何かしら見誤るのではないか、という不安をかきたてます。
アジア人なら特にそう思う可能性も高いと思います。
しかし、そんな心配は必要ないんです。
この違いは、形而上学と形而下学の違いです。
私が言っている構図の見方などは、形而下的な話で、実践的で、つまり今なにしたらいいの?
に具体的に答える方法です。
形而上学的な話が知りたい場合は、いくらでも理論が出ています。
フーコーやデリダとかが書いていますが、いくら読んでも
あからさまな贋作と真作の区別さえつくようになりません。
それは、位相や次元が違う話だから当然なのです。
私は、具体的に様式や構造なんかを見る話を中心にしています。
語りえない包括的な体験を、有限の時間に生きる私たちがちょっとでも
実感のある手触りを持って見たと知るために
便宜的に「画枠の比率がこうだから、こう」
とか「目線がこんな風に誘導されてる」とか
「バランスが中央を軸としてシーソーのように取ってある」とか
「補色理論が盛んだったから補色を使ってる」などとフィジカルな話をしているのです。
「3/4とか2/3がルネサンスでは重要な比率だった」、とかです。
それは、いずれは全体的な体験の一部であると自覚できるはずだし
全体的な体験を深めるものになるはずです。
「ここがそうだから、そんな風に感じたんだ!」みたいな理解です。
![]()
私がローマでサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会に行ったときのことです。
外は冬の冷たい雨で、人はまばら。
たまたまオルガンの演奏中でした。バロックな音楽を聴きながら
ローマで唯一のゴシック教会の青い交差ボールト天井を眺め
ちらっとミケランジェロの彫刻を見たり、ここでガリレオ・ガリレイがあの裁判受けたんだ
とか、フラ・アンジェリコのお墓がここにあるんだ、なんて思っていると
演奏が終わり、まばらにいた人たちで一斉に拍手をしました。
こういう体験はは本当に面白いもので、記憶に残ります。
西洋の歴史と、美術史の時間に学んだ事がいちどきに迫ってくる瞬間です。
こういう場の空気とか、雰囲気とか、場の記憶とか、そういったものと
そこにある作品が溶け合った体験をすることが何より面白い事だと
私には思えます。
これは一瞬で、全体的に、ぱっと捉えるしかないものです。
でも分解は可能です。雨、オルガンの音、湿気た室内、フラ・アンジェリコ・・・
五感全部で内省的になれる状況で、ベルニーニが彫った墓碑がさほど目立たない場所にある贅沢、
ガリレオ・ガリレイが正しかったと私は知っている事、フラ・アンジェリコが今なお非常に高く評価されていること、
イタリア来るのに貯金して良かった、などが絡まっているんです。
そういう全体としての体験をより深く楽しむには、
全体的なものを知る本質的な不可能性を受け止めた上で
その一つ一つの要素を、それをつなぐ関係性を具体的につかむことが
体験を豊かにこそすれ、損なう事はないと私は思います。
というかそう信じないと、実際問題、何も出来ないのです。
そうでなければ、私は何を見て美しいと思い、楽しいと思い
素晴らしいと思うかも、自分でちっとも分からないままになってしまうからです。
全体を見渡しながら、細部がどういう関連になっているのか
その視点を失わないなら、きっと部分に注目していても
大丈夫です。だから、バランスや目線誘導の工夫なんかも
安心して検討したらいいんです。
そう思って、「構図」の見方に続いて
「様式」の見分け方の準備などやっているので、お楽しみに!!