フロムの『自由からの逃走』 からの引用は以前まとめました。
(本文は、↑をクリック)
今回、私の意図を的確に表している言葉なので、再掲しておきます。
後半に、「見る技術」にまつわる名言・私の解説を載せたもののリンク集を付けました。
以下、フロムの『自由からの逃走』からの引用:
これと同じような現象は、美的判断にも見られる。普通のひとは博物館へやってきて、レンブラントなどの有名な画家の絵を眺めると、美しい印象的な絵であるという。しかしかれの判断を分析してみると、かれはその絵にたいしてなんの特別な内的反応も感じておらず、かれがその絵を美しいと考える理由は、その絵が一般に美しいものとされているからであることがわかる。
(少し飛ばして)
多くのひとびとは有名な風景を眺めながら、じっさいは絵葉書などでたびたびみた絵を再現している。「かれら」は風景を眺めていると思いこんでいるが、じっさい目のまえにあるのは絵葉書の絵である。 |
以上です。
■「見る技術」名言集の意図
あなたが「見て」下した判断は、あなたのものですか?
正しく検証するには、焦らず落ち着いて、丁寧に観察し、どういう枠組み・立場で見ているか俯瞰して捉え、必要に応じて情報を得ることだと述べてきているのです。
もし、うわっつらのものを自分の考えだと信じ込んでいるなら、この点に気づき、認め、少しずつでも自発的に自分の経験・目でもって観察し思考する事の大事さ、そしてその方法を出来る範囲で述べてきています。つまり、自由から逃げ出さず、自由への方法の一つとして「見る技術」はあると思い書いてきています。
ですから、今まで選んできた名言も、この考えに基づいています。
そして、古典の中に似た考えが幾度も現れ、見つけるのがたやすいのは驚くに値しません。
昔から言われ続けていることだということです。
【見ているつもりでも、見ていない】
*「彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない」 パスカル
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11811431157.html
*「目で見ているのではなしに、耳で見ているのではなかろうか」 瀬木慎一
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11752572889.html
*「君は見ているが、観察していないのだ」 シャーロック・ホームズ
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11718203612.html
*「人は自分が見たいように見る」 ジュリアス・シーザー
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11717365428.html
*「心ここに在らざれば視れども見えず」 『大学』
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11718303314.html
【見方による誤謬への注意は繰り返される】
どれも、見方の甘さが誤謬に繋がっている点を戒めています。
このような繰り返しの妙を、ベルヌーイの言葉で示したつもりです。
*「私は姿を変え何度でもよみがえる」
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11731692957.html
しかし、自分の見方が甘く、誤謬を犯していることを認めるのは辛いことです。
それを戒める言葉もいくつか選んできました。
*「都合の悪い事実のようなものを承認すること」 ウェーバー
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11726861968.html
*「プラス思考という名の現実逃避だよ」 『ギャグ漫画日和』
http://ameblo.jp/love-mesopotamia/entry-11728544554.html
どうしてこれほどまでに、何度も注意されているのに、人は適当に見て適当に判断するかというと
面倒くさいからです。これに尽きます。
その変わり、怠惰の代償は、過剰な不安や虚無感、無力感をそのままで、先延ばしするだけで、自然解決は望めません。適当に慰めつつ、おいおいやっていく、というなら、それでもいいのかもしれません。また、フロムが言うような全体主義に対しても、ただ流されるだけです。それに対しても、仕方ないや、と考えてしまうように私たちは教化されているというのもフロムが述べているメカニズムなのです。
面白いですね!